2017/08/09

自分、というか自分が結婚をしてその相手と一緒にひとつの(単位を知らないんだけど)寺を継ぐ、ということが決まっていると、日頃触れるものと自分の境遇を引き寄せて考える癖が身についてしまう


自分の態度や姿勢、これから学ぶべきこと、信仰するってこと、寺院そのものやそこで行われること、宗教者や信仰者のこと、そもそも言葉にすることやそれを伝えて共有すること、またそのお寺がある土地に対する姿勢とか、そういったものについて。
たとえば、「お風呂で話すと全部哲学的になる」なんてフレーズを聞いたら、寺院が持つ場所の雰囲気とお風呂の雰囲気って似てるのかね、お風呂としての寺院、おもろいふふふふと思っちゃうし、先日も挙げた『問いのない答え』のなかで「長渕剛の声と様子で言われたら、できそうな気さえしてくる。これは長渕剛がいるときにしか生じない唯一無二の説得力だ。長渕は問いも答えも自分一人で設定して、事実上の(感動的)演説としてみせた。この世に作用する言葉には、報道と、文学と、長渕の言葉がある、というサキのまとめで授業は大爆笑で終わった」なんて台詞を目にしたら、坊主頭の人が袈裟を着てゆっくり話したら、それだけでなんだかそれっぽくなっちゃってへんてこ、などと思う。そういった感じで日々引き寄せている。

 

先日、建築設計を生業としている人間から(わたしは違う)、「とてもおもしろい。あした(わたし)に貸すよ、建築の前知識がなくても、やわらか脳になれる読み物」と紹介されたのが、長坂常さんの『B面がA面にかわるとき増補版』。
テキストや論評がそもそも勉強になるのとおもしろいのと、作品、といったらいいのか、写真で見る実際の建物や部屋がなにしろ好ましくてとてもとてもよかった。


と同時に、演出家の岡田利規さん(わたしはこのテキストで初めて存じ上げた人)が、リノベーションと演出の倫理を似たものとして論じているように、わたしも、リノベーションとひとつの寺を継ぐことをいつものように引き寄せてあれやこれやと考えていた。

 

本来重層的である既存の建物から層を間引く、その方法をデザインすることがリノベーションである、と長坂さんは話しているけれど、これから継ごうとしている寺というものも相当重層的で相当厄介だなと思う。
ひとつ歴史、と言っても、宗教、仏教、宗派、その寺、その寺がある土地、継いできた、そして通ってきた人々のそれらが重なりあう。でもって、教えというのか教義というのか、そういう具体的に学ぶべき内容があり、それに伴うのか否か、習慣や風習、行事とか、人との関わりが発生していて、実際にそれを行う人々、とはいっても住職やその家族、檀家さん信者さん、あるいは地域住民、また同業者も含めてより業務的に関わる人々なんか、が存在し、存在すると同時に、それらの人々が、前述のそれらに対してそれぞれ異なった気持ちを抱えている。

 

寺という重層的存在を、リノベーションにおいての既存の建築にたとえれば、それを継ぐとすれば、建物にそのまま住む、建物はそのままでも部屋の模様替えをしたりカーテンや壁紙を変えたり、ぼろそうな所の修繕をしたりはする、あるいは環境をまったく変えずに自分の思考や生活自体を建物に合わせて変化させていく、など、もちろんリノベーション以外の道は選ぶほどある。


なんだけれど、問題は、わたし自身が寺という既存存在を本当に心からかっこいいと思えていないこと。もちろん、ただかっこいいと思える要素だってある。ただ、継ぐことを100%楽しむにはあまりにも重層的すぎる。だから、ただリフォームすれば住みたいと思えるようになるかといったらわからない。よって、リノベーションの話は、読めば読むほど自分が継ぐことへの問題定義に聞こえ、アドバイスにも聞こえ、でもってなによりも大きな励ましにも聞こえる。


以下、

青木さんのお話から思ったことひとつ
田中さんのお話から思ったことひとつ
長坂さんのお話から思ったことひとつ

 

ひとつ
青木淳さんが〈奥沢の家〉について
「既存と新装が混じり合うのではない。溶け合って、その区分が曖昧(アンビギュエント)になっている、というのではない。そうではなく、既存であると同時に新装であるという、ふたつの対立する見えが振動しだし、〈奥沢の家〉は両義性(アンビバレント)をまといだしていくのだ」
と言う。建築でいうところの新装は、寺を継ぐ話では、「もっとこうだったらかっこいいのに、こうだったらいいのに」というわたしやわたしの相方となる人間の考えとか理想的像に置き換えればいい。引用を続ける。
「〈奥沢の家〉は、いろいろな対立項が用意され、その間のアンビバレンスが、何層にも、丁寧に塗り重ねられた作品だ。その結果、ブレの感覚が増幅されて、それが通奏低音のように響いている。そのブレは、なにか特定の、たとえばオリジナルからのブレというのではなく、ただ純粋にブレている、という次元にまで達している。たしかにこの住宅は、先立ってそこにあったもの、つまりコンテクストと正面から向き合っている。という意味では、これは実に他律的な建築だ。しかし、その完全な他律性が、すぅーっと、純粋なブレの感覚に吸いこまれていっている」。


なんじゃそりゃ、ずるい、と思う。他律的であると同時に、純粋に自律的な性格ももてるなんて。なんてずるい、と思う。


寺院を取り巻く既存の外部条件が厳しいなかで、結果として自律的な行動をとることは実際のリノベーションよりはるかに難しい。なに頭のかたいことを、と自分でも思うけれど、でも実際に難しい。自分の主張をすることが難しい、というのと、そもそもそれがふさわしくない環境である場合が多い。し、わたし自身、全力で他律的でいることがそもそも理想であるとも感じる。(ここらへんはむずかしい。かっこいいと思えないと言っておきながら、それを変えることすらもかっこいいと思えないという。)だけど、他律的でいる、という自分の意思以外での「自律」はのぞめないか、というとそうではない。相方の人間と一緒に、自分の思う「新装」を絶対的に尊重し、自分たち(だけ)にはわかる自律的な方法で物事を選択、決定していくことはできる。目に見える形でなくても、二人が共有できていれば、まずは救われる。そこだけは確実に守りたい。そこができたら、その先の可能性だって増えてゆく。

 

ひとつ
田中功起さんのテキストを読む。
「手を加えないで視点だけを変える。これが、『受け入れる』こと=創造になる契機だ。たとえば、ネガティヴに見えていたもとをポジティブにする。これで十分なはずである。(略)重要なことは、つくるひとによるあからさまにわかるような実践である。圧倒的に、あけすけないくらい、変化を見せてしまう。リノベーションされた家は、そこに住むひと、そのあたりに住む人にとっての、視点更新のためのひとつのテスト・ケースとなり、基準となる」。


ネガティヴに見えたものを受け入れ、全部を受け入れたうえで視点を変えたことを、物質を扱えないわたしたちはどう人々と共有してゆけばいいのか。
教義とか知に関するものだったら、言葉なのか編集なのか、人との関わり方に関するものだったら、説明なのか態度なのか、そもそも視点の変え方だって慎重になる必要がある。視点を変えてしまったら自滅さえあり得るなかで、とにかく自分達に合う角度を探してゆく。

 

さいご
〈奥沢の家〉の外壁に関して、長坂さんはこう話してる。
「レンガにフロッタージュという絵画の技法を用いることにした。なじみのあるところでは、コインの上に紙をのせて鉛筆でこすり、コインの凹凸模様を鉛筆で浮き上がらせる方法だ。つまり、それで、レンガ貼りの複雑な形を、鉛筆でなぞったような平面的な線画にし、建物全体を'軽い存在’にかえたいと考えたのだ」。


同じものについて青木さんは「もともとのもの、新しいもので塗り込め、消そうとしている。と同時に、もともとのものを、残そうとしている。既存であることと新装であることを同時にしゃべろうとして、吃ってしまっている」、
田中さんは「外装の否定ではなく、肯定によって見出された視点」、と話している。


青木さんと田中さんのコメントも頷けるけれど、やはり「'軽い存在'にかえたい」という長坂さんのニュアンスが一番いい。そりゃ本人が言うことだからそりゃそうなんだけれど、とびっきりいい。
もう1回だけ打ちたくなるほどいい。「'軽い存在'にかえたいと考えたのだ」。やっぱりいい。
もちろん、物質そのものが軽いわけではない。しっかりと重力ははたらいている。だけど、軽い。ただ軽いわけではなく、レンガの重みのある軽さ。
(わたしの好きなものに引き寄せると、これは重力ピエロなんだと思う。これ以上は言わないけれど)

いくら重くても、その重さはそのままに軽くすることができる。建築にできるんだからわたしたちにだってできる。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」ってことと近いのか違うのかはわらかないけど、たぶんできる。岡田さんの言葉を借りれば「『ダサい、死ね』みたいなひどいことを思わなくなり、反対に、距離をとったユーモラスな態度でそれを『かわいいね』というように見てあげることが、できるようになる」。
そのダサい事々は、自分たちがこれから迎え撃たないといけない困難なことかもしれないし、たぶんそれだし、学んでゆくこともそうだし、その伝え方だってそうだし、それら全部が重くのし掛かってくる。ただそれらは軽くできる。困ったらひとまずフロッタージュする。なんつって。でもそのくらい軽くできる。