2017/08/11

近づいてみれば物質の状態であり、遠退いてみれば観念のシステムである。作品の秘密は、距離の力学にある
って、『余白の芸術』に書いてあったことを覚えている。読んだ本に書いてある大概のことは忘れているけど、そのことはよく覚えていて、よく思い出す。

 

今夜、上野公園のあそこでナオコーラさんの『浮世でランチ』を読んでいたら
「都会へ出る。
 スーツを着こなし、ヒールの高いサンダルを履いた女性が、颯爽と地下鉄の階段を駆け上がっていく。
 素朴な雰囲気の可愛い女の子は、はにかんだ笑顔で友だちと喋っている。シンプルなTシャツやジーンズでも、髪を隠すスカーフを留めるのに、ピンクの石や銀の細工がほどこしてあるとても可愛いブローチを使っている。
 女の子を見るのは楽しい。
 頭の中で考える、絵に描くような輪郭の女とは、全然違う。
 実際の女は、近寄れば毛穴まで見え、遠ざかれば目鼻立ちがわかり、腕や胸の形がわかる。そんなものだ。
 ときにぶさいくで、ときに美しく見え、周りの雰囲気や、見ている自分の状況によっても、変化する」って丸山が考えていて、それで、冒頭のそれを思い出した。

 

そのあと、今日は特別21時まで開いている都美術館へ行った。杉戸洋さんの展示をみた。


杉戸さんのことはまったく存じ上げていなかった。ヴァンジ(地元にあるのでこんなに馴れ馴れしく呼んでしまう)で展覧会をやっていることは知っていて、わたしが小中高と通っていた造形教室に、杉崎スターという愛称をもつ杉崎先生と「杉」がかぶってるなー、という印象だけを持っていた、だけだった。杉がつく名前の知り合いはもっといるはずだけど、なぜか、杉崎先生を思い出した。そういえば、最近作品を読み出した堀江敏幸さんも、堀江という名字なだけでなぜかホリエモンの堀江さんが思い浮かんでしまい、大好きな読書好きのお友だちに(わたし)さん堀江さん好きだと思うよと言われるまで手にとったことがなかった。そのことを親しい人に話したら、ちょっとわかる、と言われてすこし嬉しかった。名前の印象って結構大きい。

 

なぜか団体料金で観れてしまった「とんぼとのりしろ」、想像をはるかに超えて好きだった。興奮した。上記の『浮世でランチ』で、丸山が
「その頃は、私は男の子の体よりも、マグカップの縁や、目がかゆくてたまらない、といったことの方が、性に近いと考えていた」と思うところがあるけれど、おそらく、ギャラリー内で性的に興奮していたと思うわたし。もしかしたらそんなことはなくてただ楽しかっただけかもしれないけど。

 

杉戸さんの作品は、抽象と具象の間を行き来するって説明されていることがどうやら多いらしい。そういう観念的なものは全然わからなくて、ただ近くに寄ったときにその物質がその物質以外のなにものでもないところが好きだった。だから、もしかしたらわたしが好きなのは杉戸さんの作品ではなくて、カンバスとか絵の具とか、木材とか紐とか、発砲スチロールとか、蛍光ピンクのガムテープとか、タイルとか、白い石とか透明な弦みたいなのとか、それら使われている物質そのものなのかもしれないけど、でもその物質が目の前にあるっていうことが杉戸さんの成果なんだから、杉戸さんの作品が好きって言っていいんだと思う。あーあ、楽しかった。本当に楽しかった。


ギャラリー内を歩き回りながら、そういえば造形教室に入ったきっかけ、というか入る前に見学したときのことを思い出した。教室、というか、部屋全体が新聞紙でいっぱいで、そのなかで同じ年代の子供がけらけらとなにかを作っていた。子供らの真ん中に座ってこれまたけらけら指導しているひげもじゃのお兄さんがあまりにもかっこよかった。その光景を、当時のわたしがどう感じたのかまでは覚えてないけれど、その光景を鮮明に思い出せることは確か。強烈だったんだと思う。新聞紙の海。


「抽象と具象」というキーワードだけど、杉戸さんの作風だけじゃなくて、物質そのものの性格が抽象と具象どっちとも言えない、どっちとも言える、その間にあるのかも、とさっきふと思った。
たとえば、枝を拾うときに、わたしが拾うのは目の前の「その」枝なわけだけど、その枝であると同時に、枝全部なんじゃないかなとも思う。これは全然考えを深めていないからここでおわり。


動物園に行ってもいないのにオカピ2頭とお会いできたし、とてもいい形の山も見れたし、なにしろ団体料金で観られたし、行ってよかった。傘も忘れなかったし