2017/08/14

わたしが小学生のとき、授業中とか遠足でバスに乗った時とかに、たまにびびることがあった。いま同じ空間にいる人間は、みんな他人で自分とは何のつながりも無い(あるっちゃあるんだけれど、それは自分の意思とは関係無いからね)ことにびびっていた。幼稚園には通っていたけど、家族とか、家に来る大人子供くらいとしか面識がない生活から一転、小学校に入ってから朝から夕方まで全員他人と過ごしている、って事実にはっとする瞬間があった。みんなといるのに、そのことを考えているときは異常なまでにさびしくなった。泣きたいほどにこわくなった。常にびびっていたわけじゃなくて、ふとした時に。それもそんな数多くなかったと思う。だけど、びびっていた時の感覚は確かに覚えてる。

 

それと似た感覚をここ数日で思い出した。

大体1週間に1回ほどあそぶ人間と、3泊4日も一緒にあそんだ。(本当は、あそぶんじゃなくて生活をしたかったんだけど、やはり3泊ではそこまでいけなかった。生活っちゃあ生活だったけどまだ非現実だったそりゃそうだ)どこに行くでも目的があるわけでもなく、そのときに思いつくやり方で衣食住をともにした。

 

どの瞬間だったんだろう、朝兼お昼ご飯ガパオライスを食べている目の前の人間を見ているときには強く感じていたと思う。なんでわたし、他人と一緒にいるんだろうって思った。友人と何泊かで旅行へ行くこともあるけれど、それとはまた違う関係と時間の過ごし方。小学生以来、初めてその感覚を思い出したけれど、今回のは恐怖ではなくて、不思議だった。さびしくもならなくって、むしろぬくとい気持ちになった。他人と、家族と一緒にいるような感覚でこんなにも楽に生活(仮)できていること、できている自分、への不思議なんだと思う。有難さ、もあるけど、なによりも不思議。嬉しさもあるんだけれど、なによりも。

 

前述した長嶋有さんの『パラレル』もそうだけど、伊藤たかみさんの『誰かと暮らすということ』もそうだし、ぱらっと立ち読みした『くうねるところにすむところ(たぶん)』っていう漫画もそう。誰かと一緒に生活をするっていうテーマに、お話を通して触れることが多かった最近。そういうテーマには、相手とはそう簡単にはわかりあえないっていうことが大前提がある気がする。わかりあえない中で、言葉を発して受け取って、また発して、行動して受け取って、また相手に返してっていうやりとりが読んでいて愉しいんだと思う。「セージと虫」のやりとりなんてたまらない。あ、『目玉焼きの黄身いつつぶす?』もそうだな。そういえばブランチガパオの仕上げ目玉焼きを焼くのに、力入れすぎて白身全部こぼれてそれはそれは情けなかった。

 

「夫婦のようになった、と感じるとき、その二人の間には確かに文化が芽生えているのです。食卓でそれとって、といっただけで『それ』がソースか醤油か分かる。たてつけの悪い扉を開けるときの力の入れ加減を二人だけが会得している。そういう些細なものの集合はすべて文化で、外部の人には得られないものなのです」

 

って、『パラレル』のなかで津田が結婚式スピーチをしている。(ここでは、同棲と結婚をはっきり区別していて、結婚をしてこそ自分たちを守れる文化ができるっていうことを強調しているけどそれはひとまずおいといて。)

 

わたしと相手の人間の相性がいいからずっと遊んでいられるのだろう、と思ったこともあった。思っていた。実際に相性はとてもいいんだと思う。けど、数日エセ生活、エ生活をしてみて、相性のよさ以外の、それと同等かあるいは超えているようななにかを、わたしたちはこつこつ手に入れてきたのかもしれないとも思った。あそんだりぺちゃくちゃと話をしたりしてきた時間の蓄積が、2017年8月の連休の愉しさを形作っているんだと思う。何年たった今でも(大して経ってないけど)「会えてよかったね」といいあえる時間を与えてくれてくれているんだと思う。信頼・信用とか、そういうのはもちろんそうだけど、それこそ「力の入れ加減」がわかるようになるというか、話すべきことがわかるというか、なんとも一言ではまとめられない、ふたりで合わせる息、とでもいうのか。とにかく相性って言葉では言い切れないものを手中にしてきている気がする。これ、言葉にするまでもなく当たり前なのだけど、言葉にするまでもなく当たり前のことは言葉にしなくてもいいってことでもないだろうからここに書いてしまう。

 

もちろんなかには、時間の蓄積がないからこそ、というかなくても、好ましくて、ふとしたときに思い出す人もいる。これから時間を蓄積してゆけなくなったからこそ忘れられない、っていう人もいる。わたしにも、もちろん相手の人間にも。その中で、一人の人間とは毎日朝とか夜の挨拶をしたいと思う。層を厚くしたいと思う。とか思う。

 

そんなことを思える今は、津田のいう文化、の種をまく土を耕す土地を探しているような時間で

もっとその他人である人間、他人間(たにんげん)とたくさんやりとりをして、まあまあすれちがったり合流したりなんなりしながら仲良くやっていきたいものだと思って

平和であることの有難みって、もしかしたらそういう思いと1番近いのかもしれないなとも思って

昨日10箇所以上も虫に食われたところのとんでもない痒みがはやく治まってほしいとも思うけどそれもそれですこし寂しいなとも思って(ウナクール片手にこれ打った)