2017/09/17

4辺にそれぞれ力を入れながらスタンプをおすと、内側の図だけが写されるはずのスタンプも、写されないはずの四角い輪郭が図になることがある。とか、その人がりんごをかじったら、そこに歯型がつく。とか

 

愛ってそういったことなんだろうなと分かった。

愛ってなんなんだか、とプラプラ考えていた矢先の発見だった。センチメンタルな旅。

 

何ヶ月か前にチラチラっと立ち読みしたのは、たぶん『I Love Youの訳し方』って本で、誰の言葉かも細かいニュアンスも覚えてないけれど、「わたしは○○才でようやく生まれた」みたいな、1人を愛するようになってやっと自分が「生まれた」、というような訳があったのを覚えている。それだけ覚えている。

1人の人間と向き合うことに不慣れで、試行錯誤、知らなかった自分についていくのに必死なその時期(今もだけど)の自分にとってしっくり来た言葉だったんだと思う。

 

自分が生まれる、ということと、あとは、世界が生まれる、ということ

 

好ましく思える人間がいて、その人を愛している、という時に言うその「愛」が、その人間(だけ)に向かっている・宿っているんではなくって、世界に向かう・宿るんだろうかね

 

月が綺麗ですね

今夜だったら、「雨風が強くなってきましたね」

 

それは、月が綺麗なこと・雨風の強さを相手と共有したいとか、「そうですね」と言い合いたいとかそういうんだと思っていたけど、それだけではなくて、共感したいとかいう以前に、ただ月がそこにあって、雨風が強いって、って、ただそれだけのことかもしれない

月と雨風を自分が今見ている(ということを認識している)っていう、愛しているってそういうことかも

 

と、その写真家の撮った写真を見て思った。「陽子」が写っていない写真にも「陽子」はいたし、「陽子」だけが写っている写真にも彼の世界があった。世界を前提とした陽子であり、陽子を前提とした世界が見えたように思えた。(全部の写真の四角中に「陽子」への愛を感じた。)だから、(ただの)新婚旅行の記録写真にもみえる(というか、実際そう)写真群を見てなぜかちょっぴり苦しくなって涙が出たんだと思う。(もちろん、写真に宿る愛だけじゃなくて、その前に読んだ「この『センチメンタルな旅』は私の愛であり写真決心なのです」というキャプションに少なからず涙腺はノックされた)

 

目に見える世界

りんごについた歯型とか、電車の中で飲む「冷し麦茶」とか、「陽子」の足元に置かれた薬缶とか、月とか雨粒とか、

そういうものが、(愛する人を含む)自分の世界をかたどってゆくと同時に、

自分の意思で、その人間を中に含んだ(自分の)世界をかたどっていかないといけなくなる。

簡単な言葉でいうと、結婚とか人生設計とか、覚悟とか責任とか、家族とか、そういうもの

 

これまでは地に過ぎなかった世界っていうものが、だんだん図になってゆく

 

愛している、っていうのが、好きの最上級・その先、みたいな、そういう捉え方をするものとは訳が違くて、もっと大きくて厄介で、なれたくないと思ってもそもそもそれさえ難しいもので、だからこそ、こねくりまわしながら付き合ってゆきたい言葉なのかもしれないという2017年23歳時点でのわたしの認識

 

だから、愛してると好きは1秒単位でいったりきたりするし、たった今はまったく愛してなんかいないし、なんだかくさい言葉をたくさん並べてしまったので鼻をつまんでいるし