2017/08/07

服部さんが表紙デザインしていた小説が気になってはいたんだけど、実際に読んではなかったし、そもそも女性作家だと勘違いしていた


先月の頭頃、図書館に寄って、返却直後の本が一時的にストックされている一角を覗いたときに見つけた『問いのない答え』の単行本を借りて読んだ。
「飲めるよね、ともっとも強気な態度でボトルのワインを頼んだ富田が横に伸びてしまい、あとからきた向こうの横長席の客のため、どかさなければいけなくなった。
 『すみません』いいえ。ドス江が富田の肩をゆすった。
 『すみません』いいえ。さっき隣の客と交わしたのとまったく同じ言葉のやりとりを路上でした。具合の悪そうな女――なめらかなハイヒールが片方脱げている――と、介抱している男の脇をネルコは通り過ぎた。居酒屋と逆で今度は謝られる側だ。
 富田は会計のときにやっと起き上がり、ヨロヨロとトイレに向かい、一回吐いた後はスッキリした顔をしていた。
 だいじょうぶ?と男の声だけが背後から響く。すました色の歩行者用青信号をみながらわたる。あの女も吐いた方がいい。
 自分のことでもだが、吐いた後スッキリするあの感じはなんだろうな。それはなにか大きなことの象徴のように思えたのだが、すぐに何々となぞらえることもできない」。


「それはなにか大きなことの象徴のように思ええたのだが、すぐに何々となぞらえることもできない」。はなしの中で何度も何度も繰り返されたこのフレーズを読んだときからもう長嶋さんのお話、というか長嶋さんのことが大好きになった。

 

「ホテルに帰ると二人は戻っていた。ガウディの作った小さな教会に行ったという。ちょうど新年のミサを行うところで、二人はそれに参加したのだそうだ。特別扱いされたわけではない。日本人としてでも旅行者としてでもなく、神のもとにミサに訪れただけの人として迎えられたのだろう。
 『一緒にくればよかったのに』二人はとても残念そうにいった。
 しかし僕は、自分が冴えない散策の果てに小さなカフェで女主人に見守られて仕事をしたことや、二人が異国で『本物の』ミサを体験したこと、二人が僕の不在を残念がったこと、僕が二人は雨にうたれていないかとつかの間思いを巡らせたこと、その出来事の全体を素晴らしいと思った。旅行をしているという実感があった」。
これは、次に読んだ短編集『タンノイのエジンバラ』中の『バルセロナの印象』から。友人の引越しお祝いを買いに二子玉川に行って待ち合わせ時間までの間で読んで、とてもいい気分になった。

 

これも抜群におもしろいエッセイ集をはさんで(これは全部読み終わる前に、あまりのおかしさに、親しい人間にも読んでほしくなったすぐに貸しちゃった)、次に手にとったのが『ジャージの二人』で、これも、柴崎友香さんの解説も含めてとてもよかった。

 

こういう話であることがおもしろいとか、こういう風な書き方であることがおもしろいとか、そういう言い方ももちろんできるのかもしれないけれど、これこれこういう時にこういう一言を放っちゃうような人物が出てくることがおもしろい、っていう言い方しか、残念ながら今のわたしにはできない。そういう言い方も、ナントカの描写、とか、ナンチャラの表現、とか、ナントカのナンチャラ、とか、そういう言葉さえ思い浮かばないんだけど、恐らく、人の発言がその言葉だけで完結するもので、その瞬間にたまたた口から出たものだけのものであるものと同時に、その人らしさもこぼしてしまう、みたいな、言葉にするとへんてこりんな、しかもたぶん解釈も下手なんだけど、そういう言葉で説明、抽象的に言えるのかもしれないけど、そうでもない。「これこれこういう時にこういう一言」を、読んでる時は抜群におもしろがれるのに読み終わったらわたしはすぐに忘れるから困るんだけれど。それこそ、先日書いたみたく、おもしろかったということだけがぽっかり浮かぶ

 

でもってさっき読み終わったのが文庫本『パラレル』。
上記したように、わたしは感想をうまく言葉であらわせない。し、同時に、うまいこと書かれた解説とか感想、評論は別だけど、の類もそこまで好ましく思えない。これもうまく言葉であらわせないんだけど、一つのお話とか作品は、ひとつのおいしい料理みたいなもので、それを食べてるときはただただおいしくて、その延長で調味料とか素材のことは考えたとしても、それらの栄養素のことまでは考えられない感覚と似ているのかもしれない、と今ふと思う。フレーズひとつひとつに一喜一憂して、拾われてく伏線にどきどきして、読了して本を閉じる。あとは自分の意識とは別のところで消化されて、血や肉となるのか、忘却というか排泄されていくのか。そんな感じ。ただ、パラレルに関しては、ゲームデザイナーの米光(すごい名字)さんが解説のなかで放った一言には100回ぐらい頷いた。解説にドックイヤーをしたのはもしかしたら初めてかもしれない。

たとえば、その一言が無かったとしたら、
「銀行の前に中古パソコン店のビラを配っている男がいた。男はいつ何時にいっても同じ場所で『あいすよー』と発音もあいまいに、酒焼けした顔で、背筋の曲がった、いかにも哀れを誘う様子で立っている。片手だけをつきだしてビラを渡そうとしていたが、誰も受け取ろうとしなかった。駅前のティッシュ配りの若者に感じられるような、無害さ、存在感の希薄さがその男にはなかった。なぜこの男にビラを配らせるのか、僕だけではなく通りがかる誰もが不思議だっただろう。
 津田はその男からなんでもないことのようにビラを受け取った」っていうのを読んで、あー、わたしが、隣で歩いている人間がケサランパサランの名を口に出した瞬間おどろいたのと似てる、目の前の人間のある部分に意識が飛ばされるってことは、大部分では自分との違いに気付くってことなのかもなーって思ったり、
「おはよう。今日はいい天気だね。
 いつもは午後なのだが、今日に限ってこんな早い時間の送信。僕の行動を見透かしているのか。だが離婚もして八ヶ月もたって、このうえなにを見透かそうというのか。女の直感というよいうな言葉を僕は信じていない。信じていないのだが、それは『女の直感』という言葉を信じていないだけで、そのもの自体は信じざるを得ないと思うときがある」なんていうのに、言葉そのもの信じられないということに対して、50回頷いたり、
文化とか結婚とかそういうキーワードに対してどぎまぎしたり、そんな感じの共感が大きく残っただけかもしれない。

 

「癒されたんだけど、それは簡単に、ってわけじゃない」。
長嶋さんの作品だけじゃなくて、自分が大好きだなと思う作品に共通するのかもしれない。ハッピーエンドだけど、そこまでの道は平坦じゃない、っていうことではない。「簡単に、ってわけじゃない」の、簡単じゃなさの質というか性格というか、種類というのか、それらが似ている作品をわたしは好ましく思うんだと思う。その質とか性格とか種類が、具体的にはどういった簡単ではなさなのかってことは別に言葉にはしたくないしそもそも簡単に言葉にしちゃえないんだけど。でもって、そんな一冊の本の解説を読んだだけで、なにか自分にとって大きなことがわかっちゃったらそれはそれでつまらないことはないんだけど。