2017/08/05

案内された席の横に置いてある背の高い植物を見て、その人間は、おじぎそうかなとおもったんだけどほにゃららほにゃらら、と、なにか手を動かしながら口にした。


その後お邪魔したギャラリーを出て大通りに向かうときに、同じ人間が、あ、ケサランパサランだ、って確かに言った。大きな綿毛みたいな白くてふわふわしたものが路上駐車場に浮かんでた。びっくりした。嘘だけどって言ったけど、本当に胸が締め付けられたみたいになった。知らなかった。その名前も知らなかったし、その人間がその名前を知っているってことも知らなかった。その名前のことは23年間知らなくて、その人間がその名前を知っていることは3年間知らなかった。


いつだか、牛乳をあたためるとできる膜、だったかその現象の名前だったか、とか、カーレースのときに鳴るうぅぅーんという音、かその現象の名前、とか、他にもいくつかわたしが知らないタカナ語をその人に教えてもらって覚えようとした時間があった。今は、恐らく聞いたらわかるだろうけど、もう覚えてない。わたしは物語の登場人物の名前も、そもそも物語のタイトルも、そもそもそもそも物語の結末だって、いろいろなことを覚えていられない。(ただ、『カラフル』の主人公の少年の名前は覚えている。)おもしろかったーってことを覚えてればいいやっていうところに甘んじている、というのも、おもしろかったーってことを覚えてればいいよね、って言い合えちゃえる友人のことをとても信頼しているから、甘んじている。植物とか花の名前だって、覚えられない。けど23年間と7ヶ月と少しを過ごせてしまっている。
だから、ケサランパサランだって耳にしたときに驚いたのは、その人間がケサランパサランっていう名称を覚えていたからっていうのもひとつはあるのかもしれないけど、そういうことじゃない。

 

わたしが、大きい綿毛みたいなものが浮遊しているところを何度も見かけたことがあるのに名称を知る機会が無かった一方、その人間は、27年間と2ヶ月と少しの間で、なにかの拍子で、誰かに聞いたとか何かで目にしたとか耳にしたとか、とにかくなにかの拍子でそのカタカナ8文字を自分のものにしていた、という、その違いを、あまりにも突然目の当たりにしたことに対する驚きだった。その違いがどのくらいの大きさのものかも分からないし例えようもないし、今後それがどうふたりに影響するのかなんてわからないけど、そこはまったくわからないけど、今日、リズムアンドブックスさんが夏休み中だった今日、mimetでお昼ご飯とかき氷を食べたあとに足を運んだ馬喰町のギャラリーを出て大通りに向かうとき、あ、ケサランパサランだ、って言えた人間と、そうじゃない人間、というふうにふたりがいきなり区別されたことだけは本当だった。から、びっくりした。


それだけ、わたしとその人間の共通点を見つけることに慣れていたのかもしれない。これからそういった違いがどんどんどんどんどんどんどんどん出てくることは、うれしい。心臓にはわるいけれどうれしい。そういう場面にはいつ直面するかわからないから、気を抜いてはいられない。おじぎそうの時は、正直これから一緒にお昼ご飯を食べられる楽しみが大きくて、油断していた。耳だけは動いていたけど耳だけだった。普段の会話、お互いのひとりごとつぶやきも含めて、は、じっくり読み返して面白がれる余裕なんて与えてくれないんだから気は引き締めていないと。と思った。


でもって、わたしがその人間とよく似ていると別の人間にケサランパサランの話をしたら、それこのくらいの大きさの妖怪でしょと言われた。こいつも知っていた。なんで知ってるのかいつ知ったのか。なんでかもいつかも分からない思い出せないことにその人間はびっくりしていて、それは本当にびっくりするに値することだなと思った。